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副院長の中村です。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

昨年末、〝世界の屋根ヒマラヤ〟の国ネパールに行ってきました。カトマンズ在住のラクシミ・スベディさんとの36年ぶりの再会もできました。スベディさんは、幼い頃の事故で足に障害を負い、昭和52年に当院創設者の中村裕前理事長(故人)が足の手術を行った女性です。日本で手術を受け、若い頃から障害者スポーツ大会などに出場していた彼女は、現在カトマンズで商店を経営し、その収益で障害者施設を運営援助しているそうです。

ネパールは医療、福祉などの社会保障制度の整備は非常に遅れており、彼女の活動も全くのボランティアです。いくつかの病院も視察させてもらいましたが、医療機器をはじめ包帯や注射器などの医療材料も全く足りない状況で、「何でも良いから物資を援助してほしい」と向こうの院長先生から言われました。公的医療保険の制度自体がなく、医療費は全額完全前払い制。レントゲン撮影や血液検査なども先にお金を払ってからでないとしてくれません。衛生環境なども非常に悪く、感染症や栄養不良が大きな問題となっています。それ以前に電気や水道といった社会インフラが未整備です。

2日間だけの滞在でしたが、そのようなネパールを訪れて、改めて我々日本人の恵まれた環境、特に進歩した医療技術の恩恵をいつでも安く受けられるという恵まれた医療環境に感謝しなければと強く感じました。スベディさん、これからもネパールの障害者福祉のためにがんばってください。そして、またいつかお会いする日を楽しみにしています。最後に付け加えますと、ネパールの子供たちはとても人なつっこくてかわいいです。

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昭和52年12月、手術を終えたネパールの少女スベディさんと中村裕前理事長

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スベディさんの自宅には、ネパール国王から叙勲を受けた時の中村前理事長の写真が飾ってありました

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整形外科病院のレントゲン室。検査は全額完全前金制

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骨髄炎による両下肢麻痺の子供

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空き地での障害児クリケット。ネパールは歴史的にインドや英国の影響が強い

 

※昭和52年のスベディさんの大分滞在について、『中村裕伝』より引用を掲載しますのでぜひお読みください。 

『中村裕伝』

(昭和52年11月。文中の「中村」は、当院創設者の中村裕前理事長のことです)

『ネパールの少女を招いて手術』

オーストラリアのフェスピックの折に、ネパールから参加したラクシミ・スベディ(18)さんを、中村は大会会長のグラント医師と共に診察した。スベディさんは五歳の時に自動車にひかれ、左膝下を切断、右足も指が変形していた。銀行家の父があらゆる治療を受けさせた結果、松葉杖で歩けるようになったのである。その後、カトマンズに開設された身障者授産場に入っており、この大会では松葉杖六十メートル競走に出場して銀メダルを得ていた。しかし、両足とも押さえると痛くて、自分の足では歩けないと言った。中村が精密検査してみると、左足のひざは逆向につながっており、右足は変形していた。両方とも手術すれば治るという確信を持ったので、中村は日本に来て手術することをすすめた。費用は「フェスピック・リハビリテーション基金」を当て、足りないところは、グラントと中村が援助するということにしたので、スベディさんも乗り気になった。

大会が終わると、ネパールに帰らず、オーストラリアから真直ぐ日本に向かった。中村は大会の後始末の用事があって発てなかったので、スベディさんは中村より先に、十一月二十五日、日本に着いた。中村から電話で連絡を受けたボランティアの人が羽田まで迎えに出て、羽田から大分空港行きの飛行機に乗せた。言葉が通じないので、胸に名前と行き先を大きく書いてつけていた。

大分空港には妻廣子が迎えに出て、中村の自宅に連れ帰った。その日から中村の家族と一緒に生活をし、みんなでスベディさんの世話をした。スベディさんはネパール語の他は少し英語が判る程度だったので、会話が思うように通じない。娘の万里子の部屋で一緒に寝起きしていたので、万里子は言葉を一つずつ聞き出しては、英語と日本語とネパール語の簡単な単語集をつくった。家族の者はこれを見ながら必要な用件を話しかけたりした。手術後、スベディさんが寝る時、義足を外して傍においておくので、万里子が朝目覚めると、すぐそばに義足があって一瞬どきっとしたりした。

中村は十二月一日に、スベディさんの両足の手術を行った。左足大腿の切断と右足くるぶしの整形であった。手術は成功し、年末には左足に義足をつけて歩く訓練が始められるようになった。回復は順調にすすみ、翌五十三年二月には松葉杖に頼らず、独り歩きできるようになり、日本語も中村の家族からかなり教えられて、少しは話せるようにもなった。ネパールに帰ったら布を織る仕事をしたいと言い、中村に感謝しながら、二月二十四日に帰国した。

二年後の五十五年五月十六日から大分・別府市で、身障スポーツ創立二十周年記念・身障者技能競技大会が開かれ、これに出場するため男性選手と二人で来日し、中村と再会して喜び合った。スベディさんはネパールで、成長に合わせて義足を改造することができなかったので、約三年でまた松葉杖の生活に戻った。中村は便りでこのことを知り、大いに落胆していた。その後、五十九年四月に愛知県蒲郡市で開かれた「レスポ84」に、中村はスベディさんを招いた。彼女は四月五日に来日したので、中村は足に合う新しい義足を作って贈り、彼女はこれをつけて大会に参加したのだった。

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